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1981
スティーリー・ダンのニュー・アルバム『うそつきケイティ』 (注1) では前作以上に「ワークショップ録音」形式が大胆に導入されることとなり、スティーリー・ダンというバンドはその名前だけが辛うじて残っている状態で、その実態はといえばドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人のアルバムといってよいものでした。こうなった経緯についてフェイゲンはあるインタビューでこんな風に弁明しています。

 「もともとなんとなくこのバンドのメンバーで録音するという形式を取っていたんだけど、数枚のレコードを作ったところで、このやり方では僕等の書いた曲を旨く表現できないということに気づいたわけさ。そこで楽曲毎に最適だと思うミュージシャンにプレイしてもらうことにしたんだ」と。

 この厳しい登竜門を乗り越えて再びジェフは彼らのレコーディングに呼ばれることになったのですが、ジェフはなんとセッション初日に大幅に遅刻してしまいます。理由は前日、マリブで行われたシェールのライブ (注2) に出演した際に手に怪我を負ったから、らしいです。それが直接の原因になったどうかまでは分からないのですが、結局初日にはベーシック・トラックの録音は行われなかったようです。

 このような形で開始されたレコーディング・セッションですが、当然このアルバムでも特に厳選された最高のミュージシャン達が録音に臨んだわけですが、そんな彼らにとってもこのセッションはかなり苦痛を伴うものになったようです。特に "Your Gold Teeth II" はその最たるものだったようで、こんなエピソードが残っています。

(注1) Steely Dan - Katy Lied
jacket
(注2) マリブで行われたシェールのライブ
ソニー&シェールの二人は既にこの時離婚をしていたのでシェールの単独公演が数多く行われたいたものと思われます。
 この曲でベーシック・トラックのレコーディングを担当したのはチャック・レイニー、マイケル・オマーティアン、そしてジェフの3人でした。3人はOKテイクが取れるようにと何度も何度も繰り返し練習をしたのですが、結局ベッカ―とフェイゲンが思い描いてるような感じにはなりませんでした。数え切れない程トライしているうちに夜も更けて来たので、その日は諦めて他の日にもう一度出直してリフレッシュな気分でやろうということになったのです。この曲がミュージシャン達にとってかなり難しい曲であるということは、セッションに参加したみんなが分かり過ぎる程分かっていました。見かねたフェイゲンはジェフにダニー・リッチモンドがこの曲と同じ様に複合リズムを使って演奏しているチャーリー・ミンガスのレコードを渡しました (注3) 。ジェフはフェイゲンの勧めに従ってそのレコードを何度か聞いてみるのですが、驚くことにその次に彼ら三人が集まると、すぐにその難曲を見事にやりこなしてしまったのです。ジェフは『うそつきケイティ』でのドラミングについていくつものインタビューで語っていますが、要約してみると、こんな控えめなコメントに終始しています。

(注3) チャーリー・ミンガスのレコードを渡しました
どのアルバムを聞かせたのかは不明です。
 "Your Gold Teeth II" については、「あぁ、あの曲のことはよく覚えてるよ。僕等に渡されたチャートには6/8、3/8,9/8という譜割りが書かれてたんだ。ベーシック・トラックの録音はチャック・レイニーと僕、それにマイケル・オマーティアンだった。とりあえず僕等は一度ざっと演奏してみた。そこで僕等みんな頭を抱えこんでしまったんだ。"この曲は何だよ、信じられない" ってね。特に僕なんてまだ21歳だったんだ。今でもそうだけどビ・バップに関しては殆ど経験がなかった。正直言って初めてこの曲を聴いたときは僕じゃ全然役不足だと思ったさ。もっとこの曲を旨く演奏できる人たちの顔がパッと頭に浮かんだからね。スティーリー・ダンのスタッフはまだあんまり多くのドラマーのことを知らなかったけれど、でもジム・ゴードンのことは知ってたんだ。だから僕はゴードンの方が旨く演奏できるだろうし、もっとしっくりしたフィーリングが得られるだろうと思ったんだ。
 結構神経質になったんだけど、旨いことにリズム・セクションの録音に費やす時間が沢山あったから、なんとかやり遂げられた。譜面を読みながら叩いたのはこれが初めてだったんだ。おまけにフェイゲンの歌う詞の流れに合わせてリズムをスウィングさせる必要があったからね。フェイゲンが自分のパートを完璧にこなしていたからなおさらだった。
 あの頃は僕ら全員が近くに住んでたんでよく一緒にチャーリー・ミンガスを聴いたな。というのも、フェイゲンが僕に、ダニー・リッチモンドがドラムをやってるミンガスのレコードを渡して "スタジオに来る前の2日間これを聴くように" って言われてね。そこで彼のやっていることや親父がやっていたことを少しコピーしてみたんだ。あの曲のリズムにはそのバイブレーションが出ているんだ。それに他の曲だってみんなあのアルバムの録音では苦労の連続だった。そんなわけで毎晩スタジオを出る前には必ず一度 "Your Gold Teeth II" をやったよ。結局あの最終トラックを得るのに6〜7日位かかったと思うよ」。その他の曲については、
「このセッションで僕が思い浮かべていたのは常にケルトナーとゴードンだった。もうのるかそるかの状況だったよ。とにかく僕がやったのは、彼らのコピーをするということだけ。例えば、"Chain Lightning" ではゴードンがシャッフルをプレイしている "Pretzel Logic" を思い浮かべていたのさ。"Doctor Wu" を叩く時はジョン・ゲリンのことをイメージしていた。特にバス・ドラムとタムの間に入るフィルに関しては全くそうだったね。彼ならビ・パップ・スタイルでやるだろうって思いながらね。ゲリンはジョニ・ミッチェルの 『コ―ス・アンド・スパーク』 (注4) でプレイしてるんだけど、それがちょうどスティーリー・スタイルなんだ。
 "Black Friday" ではまたもやジム・ゴードンさ。彼のプレイは僕にとってシャッフルの良きお手本なんだ。でも僕はこの曲がうまくできなくて、ある時遂に癇癪を起こしてしまったのさ。 "僕には向いてない ! ジム・ゴードンを雇うべきだろう!" ってゲイリ―・カッツに向かって叫んでいた。その後で2〜3分外の通りを行ったり来たりして自分自身に悪態をつきまくったよ。ちょっと気分が落ち着いて、スタジオに戻ってきたらサクっと出来てしまったけど」。

 それとこのアルバムには前回のツアーでも大きくフューチャーされていた男、マイケル・マクドナルドも参加してます。彼はセントルイス出身であり、1970年にプロデビューを目指してロサンゼルスに乗り込んで来ました。既知の事とは思いますが実は彼自身は1972年にソロ・アルバムのレコーディングを完了していたのですが、どういった理由からかは分かりませんが、当時このアルバムはオクラ入りとなっていたのでした (注5)。その後スタジオの仕事をこなしていた所でスティーリー・ダンの目に留まることになります。後の活動はご存じの通りです。

 この『うそつきケイティ』に関してはこちらで更に突っ込んで書いていますので参照してみて下さい。
(注4) ジョニ・ミッチェルの 『コ―ス・アンド・スパーク』
jacket
(注5) 当時このアルバムはオクラ入りとなっていたのでした
That Was Then
このアルバムは1983年になり『That Was Then, The Early Recordings Of Michael McDonald』というタイトルでリリースされました。
Arista Records Inc. 25RS-181
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