home Historical View
1981
新たな転機がやって来ました。
 ジェフ . . . 「1973年の終わり頃のある晩、たまたまドンテスに来ていたドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人が僕の演奏を聴き、スティーリー・ダンのツアーへの同行を申し入れて来たんだ」。
 既にソニー&シェールやシールズ&クロフツ等とクラブに出ていたジェフは週に1,500ドル以上稼ぐようになっていたのですが、この時のスティーリー・ダンからのオファーはたった週給400ドルでした。にも関わらず、ジェフはあっさりとその高給を放棄してスティーリー・ダンとの仕事を選択したのでした。恐らくまだ若いジェフはスタジオでの平凡なセッションの繰り返しに既に飽き飽きとしてこともあり、以前より興味のあったスティーリー・ダンの魅力的なオファーは金品に換え難いものと判断したのでしょう。ただ "たった400ドル" という金額ですが、2000年に発売されたスティーリー・ダンのリマスター・シリーズ盤に添付されたライナー・ノーツにおいてスティーリー・ダンはこんなエピソードを披露してます . . . 。
 「1974年のツアーの為に2人目のドラマーとしてジェフ・ポーカロを雇い入れた時、我々は彼に週給400ドルを支払い、その結果彼はグループ内で一番の高給取りのミュージシャンとなった。何と言っても残りの我々は週給250ドルしか受け取っていなかったからだ」。
 この話しが嘘か真か分かりませんが、大金を投じてまでもジェフを起用したかったことには違いありません。皮肉なことに後年ジェフもこれと同様にミュージシャンを雇い入れる立場に立つわけですが。その話しはまた後にということで . . . 。

北カリフォルニアを走り回るバイカー集団?
 「スティーリー・ダンのやるものは前からアヴァンギャルドでホットで凄いロック・バンドだと思ってたんだ。まるで北カリフォルニアを走り回るバイカー集団のようだと思ってた。それにあの独特なハーモニーと歌詞。ホントに僕は彼らに心底ぶっ飛ばされてたんだよ。なんでそんな彼らの誘いを断る理由があるんだい。どうしても一緒にロードに出たいと思ったのはあの時が初めてなんだよ」。

 またジェフはこの日の出来事を別の機会にはこんな風にも語っています . . . .。
 「もしあの日レオン・ラッセルの家に行かなかったら、デビッド・ハンゲイトと出会い、彼がソニー・ボノに僕を雇ってみたら? なんて言わなかっただろうし、それにあの日ドンテスでプレイしていなかったら、フェイゲンとベッカーの二人が僕のプレイを見ることもなかっと思うよ。この二つの夜の出来事は僕のキャリアの中でも忘れることのできないことだね」。
 結局この選択がジェフにとって本当の意味での道が開けるきっかけとなるわけです。そしてこのツアーへの同行後には彼らのレコーディングにも数多く参加するようになります。いやしかし、ジム・ケルトナーとの出会い、ハンゲイトとの出会い、そしてスティーリー・ダン . . . ジェフに限らず人の運命とはどう転がるものなのか、全く面白いものです。

 さて一方のスティーリー・ダン側では彼らの三枚目のアルバムの録音が始まっていました。これが1974年春にリリースされる 『Pretzel Logic』 (注1) となります。スティーリー・ダンのプロデューサーであるゲイリー・カッツ、並びにフェイゲンとベッカーの二人は、今回は新しい試みとして「ワークショップ形式」で録音することを考えていました。この「ワークショップ形式」というのは、グル―プ以外の最高のセッション・ミュージシャン達を参加させることで、その彼らの持ち味を十分に発揮させ、細部に至るまでにも念の入った最高の楽曲を録音するという理念を意味しました。しかしこの様な特異な形態を取ることでバンド内の緊張感はいやがうえでも最高潮に達することになります。それにも厭わずに先の三巨頭は強行的にこのレコーディングを押し進めました。
 その呼び集められた名誉あるメンバーがチェック・レイニー、マイケル・オマーティアン、ディーン・パークス、ジム・ゴードン、そしてジェフ達でした。このセッショッンの話題はロサンゼルス中のスタジオ・ミュージシャンの間では瞬く間に話題となります。何故かというと、もともとスティーリー・ダンの作り出す音楽自体が独特で実験的だったからであり、さらにゲイリー・カッツは以前からミュージシャンがコレだというプレイができない時は直ぐに次のプレイヤー候補を呼び出しては新たに録音しなおすということを繰り返し行っていたからです。それだけに完成したスティーリー・ダンのアルバムに自分の名前がクレジットされるということはミュージシャン達にとっては最高の勲章となるようになったのです。

 ジェフがスティーリー・ダンとのセッションで初めて参加したのは "Night By Night" でした。もちろんこの曲に参加するまでには紆余曲折がありました。以下はリットーミュージック社刊 「スティーリー・ダン リーリング・イン・ジ・イヤーズ」 (注2) より抜粋してみます。
 "Night By Night" のレコーディングにおいて彼らは曲のある所でドラム・トラックをもう少し正確にしたいところがあったのですが、スティーリー・ダンのオリジナル・ドラマーであったジム・ホッダーにはそれができませんでした。そこで代わりのドラマーを呼ぼうとなったときにギターリストのデニー・ダイアスがジェフを呼んでみてはと提案したのです。そこでドナルド・フェイゲンが "いつだったらジェフとセッションと出来るか確認をしてくれ" とデニー・ダイアスに電話をかけさせたのですが、電話を切ったデニー・ダイアスが "ジェフは今こっちに向かっているよ . . . " と話していると、ジェフはたったの45分で録音の行われていたヴィレッジ・レコーダー・スタジオ(又はチェロキー?)に現れました。
 このスタジオはもともと納屋を改造して作られたものだったのですが、廊下の梁に装飾用のロープの輪がぶら下がっていました。この時ジェフはスタジオに入るなり、梁からぶら下がっているこの輪を見上げて、世間が言っているスティーリー・ダンの評判を思い出すと「ミュージシャンについて厳しいという話は聞いていたけど、これは全く悪い冗談だね!」と言ったそうです。

 このセッションが完了した1974年の春、スティーリー・ダンは再びコンサート・ツア―に出ることになります (メンバーの中には渋々参加した者もいますが)。もちろんそのツアー・メンバーにはセカンド・ドラマー (?) としてジェフも加わっていますし、後にドゥービー・ブラザースに加入することになるマイケル・マクドナルドがキーボード兼コーラスとして参加していました。
 そして、このステージでのハイライトといえば、アンコール用に用意されたミディアム・テンポのブルース "Mobile Home" のエンディングにありました。一通りの演奏が終わると後は延々と続くジャム・セッションに突入して行くわけですが、この部分でメンバーが一人、また一人とステージを去って行くというしかけで、最後に残った二人のドラマーのホッダーとジェフのプレイが延々と会場に響き渡り続け、最高のクライマックスを迎えたところでバックグランド・ミュージックが流されるという趣向だったようです。残念ながら手元にあるこの曲のライブ・テープでは最後のエンディング入るところで "ぶつり" と切られてしまっているので私自身はその "肝心の部分" を聴いたことがないのですが。このリズムの渦をぜひとも聞いてみたいものです。


(注1) Steely Dan - Pretzel Logic
Pretzel Rogic
(注2) リットーミュージック社刊
「スティーリー・ダン リーリング・イン・ジ・イヤーズ」

ブライアン・スイート著
藤井美保 翻訳
Relling In The Years
 結果このツアーは大成功となり、スティーリー・ダンにはライブ・バンドとしての最高の栄誉が与えられたのです (注3)。ベッカーはこの頃インタビューでこんな風にジェフのことを語っています。
 「スティーリー・ダンがコンサートバンドとして活動した最後の数週間のステージ・セッティングではドナルド・フェイゲンのピアノはステージの真ん中に置かれていて、そこから曲に長いエンディングのキューを出せるようにしてたんだ。そして僕はヘッドフォンをしてジェフ・ポーカロのドラム用の台の陰にほとんど隠れるようにして座っていた。だってその方が僕の存在を気にされないで済むから冷静でいられたし、ジェフのスネアとハイハットが聴けるだけでも僕は幸せだったんだよ」。
(注3) ライブ・バンドとしての最高の栄誉が与えられたのです
スティーリー・ダンの行ったライブの様子はこちらの『World Tour』も参照して下さい。
戻る 進む