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1981
ック・ドーティのセッション以降、ジェフに元には多くのコントラクター達から依頼が舞い込むようになります。当時はロックンロールがスタジオにも台頭し始めていた頃で、それ風のフィールを持ったジェフ達のように若い世代のミュージシャンがテレビ番組や映画などのセッションに急に必要とされ始めたからです (以下、リットーミュージック社刊:ドラムブラザーを参照)。そしてその頃のジェフが数多く行ったであろうセッションはレコードとしてリリースされ今も貴重な足跡として残されています。と言いたいのですが、ジャック・ドーティのアルバムがリリースされたのが1971年で、次にジェフの名がレコードに正式にクレジットさるのは1973年 (注1) となります。実にこの2年間は空白の期間となっているのです。その間もセッションの仕事はあったものと推測されますが、残念ながらJWにはその辺りの情報が全くありません。またリットーミュージック社刊 "ドラム・ブラザー" のJP Session Listの項には『Randy Bachman - Axe』 (注2) にジェフが参加したと記載されていますが、このアルバムを実際に入手してみたところ、どうやらジェフがこのセッションワークに参加した様子は見受けられませんでした。アルバムにはドラマーとして Gerry Peterson なる人物がクレジットされています。最初この Gerry Peterson なる人物はジェフの変名かとも考えたのですが、このアルバムの録音が行われたのは何と1970年となっており、これだとあのジャック・ドーティーのセッションよりも一年前ということになります。更に実際に聞いてみてもこれがジェフのプレイという感じも特に感じられませんでした。いかがでしょうか? この辺の情報をお持ちの方おりましたらぜひ Jeff's World にお寄せ下さいませ。

Sonny & Cher Comedy Hour
 さて一方でソニー&シェールとの仕事も順調に進んでいました。彼らは当時1971年8月1日からスタートした生のテレビ番組『ソニー&シェール コメディー・ショー』を担当しており、ジェフの才能を見いだしたソニー・ボノは自然とその番組でもジェフを起用するようになります。
 ジョー「全てがオペラ・スタイルの音楽で、それにマーチング的な要素も入っていたんだ。だからスネア・パートには読む部分がたくさんあったよ。ジェフはいつもスタジオに早く出かけて行ってはもう1人のパーカッションのアラン・エステスと凝ったスネア・パートなどを一緒に稽古していたね。アランもジェフを助けてくれた一人だ。彼は素晴らしく譜面の読める人だったから、リハーサルの段階になる頃にはジェフは問題なくそのパートをやれるようになっていたよ。あの2、3年の間にジェフは本当に進歩したと思うよ」。




(注1) 次にジェフの名がレコードに正式にクレジットさるのは1973年
 Jeff's World調べによるもの。2000年8月現在。
(注2) Randy Bachman - Axe

RCA Records LSP-4348
1.Zarahelma
2.Not To Return
3.Pookie's Skuffle
4.Tally's Tune
5.Take the long Way Home

Side 2
1.La Jolla
2.Tin Lizzie
3.Suite Theam
4.Noah

 このソニー&シェールとの仕事の集大成ともいえるのが1973年7月〜8月にかけて行われたラスベガスのサハラ・ホテルで行われたライブ・ショーだと思われます。二ヶ月近く行われたこのショーは後に『Sonny & Cher - Live In Las Vegas Vol.2』 (注3) というアルバムとしてリリースされることになります。この時のツアーのメンバーは Jeff Porcaro; Drums、David Paich: Lead Conductor, Piano, Organ、David Hungate: Bass、Dan Ferguson: Guitar、Dean Parks: Gutiar、Jack Eglash: Orchestra という豪華な布陣でした。ここで注目すべきは何と言ってもデビッド・ペイチの存在ではないでしょか。このライブ・アルバムに先立ってリリースされたと思われる 『Sonny & Cher - Mama Was A Rock And Roll Singer Papa Used To Write All Her Songs』 (注4) で既にデビッド・ペイチもレコーディングに参加しています! ジェフの口利きでバンドに引き込んだのでしょうが。こうしていつの間にかデヴィッド・ペイチと再び行動を共にしているわけです。このラスベガスでのショーに関してはペイチ自身がInsideMusiCastでのインタビューで面白いエピソードを披露してますので参照してみて下さい。
 この頃のペイチはハイスクール卒業後、南カリフォルニア大学に進学していたわけですが、それも2年生頃には "きちんと中退" することになります。故にこの時点でもうドロップ・アウトした状態だろうと想像してたんですが、先のインタビューではちゃんと大学に通いながら、"ラスベガスにも通った" と話してますね。但し、恐ろしい状態だったみたいですが (笑)。
 とにかく1973年の時点で将来TOTOの中核をなすことになるこの3人が同じステージでプレイをし、レコーディングをも行っていたことに注目しましょう。

 仕事の方も順調となったジェフは私生活においては自宅を出て独立した生活を始めるよになりました。ここでまたまたジョーのコメントを。
「僕はジェフにこう言おうと思ったんだ。 "お前は仕事を持っているんだからある程度の年齢に達したらちゃんと部屋代、食事代を払うべきだと思うんだ" って。いつまでも親が養ってくれるわけではないことを示そうとしたんだ。"お前は今仕事をして収入があるんだから、毎週お母さんにいくらか渡すべきじゃないかな、食事代とか" って言ったんだよ。ジェフは "うん、わかった" と言ったけど、すぐに彼は引っ越すことにしてしまったんだ。そして彼はアパートを見つけたよ。
 でも、それは僕に言われたからではなく、その頃すでに独立する準備ができていたんだと思う。彼にはプライバシーが必要だった。彼女もできていたしね。僕がこの話をした時に "今こそ独立にいい時だ" と思ったんだろうね。そして一人で生活を始めたんだ。ただ親としてはちょっと心配だったね。その頃には20歳にはなっていたかもしれないけどね。そこで可愛い犬を飼い、彼女と一緒に住んだりしたよ」 。

 こうしてジェフにとってはセッションの仕事が猛烈な勢いで舞い込むようになり、更に自宅を出て新しい生活を始めたりと、まさに一日一日が重要な毎日であったのではないでしょうか。しかしもっと大きな出来事が直ぐに彼を待ち受けているのでした。

 ソニー・ボノについて一言付け加えておくと、彼自身は1960年代はあのウォール・サウンドのフィル・スペクターのレコーディングにおいてコーラス等をこなしていたそうですから、元々は歌唱力があったわけですね。コメディーショーをやっていたので単純にコメディアンかと思っておりました。そして前述の『ソニー&シェール コメディー・ショー』はソニーとシェールが離婚することになる1974年まで放送を続けられました。その後残念なことにソニー・ボノは1998年1月5日、スキー事故で亡くなりました。享年62歳。一方のシェールは皆さんのご承知の通り今も大活躍しています。
(注3) Sonny & Cher - Live In Las Vegas Vol.2
(注4) Sonny & Cher - Mama was a Rock And Roll Singer Papa used to write all her songs
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