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1981
toTOのギターリストとなるスティーヴ・ルカサーは1957年10月21日生まれ。ジェフ達と同じようにノース・ハリウッドで暮らしていました。小さい頃からキーボードやドラムなどの楽器に親しんでいましたが、7歳の誕生日に父親から貰ったというアコースティック・ギターが彼の人生に大きな影響をもたらします。少年時代のルカサーはひたすジミ・ヘンドリックス、クリーム、ビートルズなどをコピーしては練習に励み、いつかはプロのミュージシャンになることを夢見ていました。高校生になり地元のグラント・ハイスクールに通うことになるわけですが、入学したその年に知り合いとなったスティーヴ・ポーカロを通じてジェフと顔見知りとなります。程なく一緒にプレイするようになるわけですが、年齢的なことを計算してみるとジェフが17〜18歳の頃ですから、スティーブ・ルカサーと高校で一緒だったという期間は1年間だけですね。ルカサーの記憶によるとその頃はマイケル・ランドー、ジョン・ピアース、フェーガ (本名不明)、スティーヴ・ポーカロ、デヴィッド・ペイチそしてルカサー、ジェフ達で演奏していたこともあるようですが、かなり流動的にメンバーが変わったりしていたと思われるので、一概にこれが固定メンバーなのかどうか分かりません。ただこんな感じの顔ぶれで、後にジェフがスティーリー・ダンのレコーディングに参加する頃までも活動は続いており、高校のダンスパーティーとかにも出演していたそうです。

ジェフも高校を卒業する頃になると進路を決めなければならなくなりました。この件についてはあるインタビューではこんな風に語っています。
 「ハイスクールの最後の年 . . . 17歳になるともう美術関係の授業はあらかた取り尽くしてしまって、 "何でも好きにやってろ" っていう感じだった。友人の中には両親が美術学校に行かせてくれるという者もいたけど、家にはそんな余裕はなかった。これではベトナムに行くしかないかな、でもいやだ、カナダに逃げようか、州民軍に入ろうか . . . なんて考えていたんだ。軍隊に入らないなら州民軍に7年ということになってて、ちょうど州民軍のバンドのドラマーが空席だというからそれも悪くないな、でも7年は長すぎる . . . 」。と悩んでいたところにソニー&シェールのツアー・バンドに参加する話が舞い込んで来るわけです。

デヴィッド・ハンゲイト
ジェフの才能にいち早く注目した一人
 ではその話に移る前にこのツアーに誘われるきっかけとなった重要なある出来事について書いておかなければなりませんね。それはTOTO結成時にベースプレイヤーとして参加することにもなるデヴィッド・ハンゲイトとの出会いです。
 ハンゲイトは1948年ミズリー州セントルイスに生まれました。ジェフが1954年生まれということですかから、デビッド・ハンゲイトの方が6歳も年上だったわけです。大学生時代の1970年にソニー&シェールのテキサス公演でベースをプレイしたことがきっかけとなり、その1年後、大学を卒業を機に本格的にミュージック・ビジネスに席を置くことになります。そしてロサンゼルスに移り住んでからは徐々に頭角を表し始めました。ちょうどその頃ハンゲイトより1年程前からロサンゼルスに移って来ていたという学生時代からの友人でもあるギターリストのディーン・パークスから「ジム・ケルトナーという凄いドラマーと仕事をしているんだ」という話を聞かされていました。そして1972年の1月のある日、ディーンから「レオン・ラッセルの自宅でセッションがあるから来ない?」と声が掛かります。他にも昔からの知り合いも来るらしく、しかもドラムには前々からその名前を聞かされていたジム・ケルトナーが来るというではありませんか、勿論二つ返事で "行くよ" と答えたそうです。あいにくこの日のセッションは夜の11時頃の開始だったのですが、しかし、ジム・ケルトナーとプレイができるということで張り切って出かけて行きました。
 「あの晩は僕はセッションに予定より少し遅れて行ったんだ。他のメンバーはもう始めていてね。どこからかドラムの音がかすかに聞こえていたけどジム・ケルトナーの姿は見えなかった。ドラムだけは別のブースにセットしてあったんだ。とりあえずヘッドフォンしてみると、信じられなく位極上のドラム・サウンドが飛び込んで来たんで驚いたよ。今までこんな完璧なタイムなんて聞いたことないぞ . . .」とハンゲイト。
 セッションが終わるとドラム・ブースから「誰がベースを弾いてるの?」っていう低い声が聞こえてきたので、ハンゲイトはジム・ケルトナーに挨拶をしなくてはとドラム・ブースのドアを開けて中に入りました。すると、そこには14歳位のあどけない少年がいるだけで噂に聞いていたジム・ケルトナーの姿が見えません。替わりにその少年が右手を差し出しながら自己紹介をして来ました。
 「 "ジェフ . . . " その時は彼の名前がはっきり聞き取れなかったんだ。 "ヴァカーロ" 、 "ディケーロ" そんな風に聞こえたんだよ。これがジェフとの出会いさ、まぁ結局あれ以来僕は本物のジム・ケルトナーに会ってないんだけどね」。
ボビー・トーレス
 「ジャック・ドーティのレコードがリリースされた後、セッションで一緒だったコンガ・プレヤーのボビー・トーレスがペイチと僕にノース・ハリウッドにあるレオン・ラッセルの家でセッションがあるから来ないかって誘ってくれたんだ。その夜は徹夜でプレイする予定だった。ギターリストのディーン・パークスとベーシストのデビッド・ハンゲイトはこれまで一度も会ったことがなかったんだけど。これが運命の別れ道ってわけさ」とはジェフの弁。

 人との巡り会いっていうのはホントに面白いというか、奇跡というか . . . 。デビッド・ハンゲイトの話とジェフの話が微妙に食い違ったおりますが、おそらくこの日ジム・ケルトナーは何らかの都合でこのセッションに来れなくなったので、変わりにジェフ達に代役を頼んだのではないでしょうか。そうです、この時ジム・ケルトナーがもし予定通り来ていたら、この先の歴史はどう変わったいたのでしょうね。ちなみに、当地アメリカでもポーカロという名前は結構珍しいみたいで、こんな風な紹介のされ方もしてます。

  . . . The drummer is Jeff Porcaro (pronounced poor-car-o) who besides owning one of the most frequently misspelled and mispronounced names in the music business.
 当サイトも含めて日本では一般的に "ポーカロ" という呼び方が通念となっていますが、本来は"ポーカーロ" って感じになるんでしょうかね。

 この出会いがきっかけとなり既にソニー&シェールのツアー・バンドでプレイしていたハンゲイトはジェフをツアー・メンバーとして推薦することになるわけです。出会ったのが1月で、しかも卒業する前というからにはこの話があったのは6月より前 (アメリカの卒業式は6月) ですから随分と話がとんとんと進んだわけですね。それだけハンゲイトがジェフを気に入ったというわけなんでしょうが。しかし、この頃のジェフはまだ高校生であり、おいそれと簡単にツアーに同行するわけにはいきませんでした。当然ジェフとしては何がなんでもこのツアーに行きたかったわけですが、それは所詮無理な話で。
 しかしここからがアメリカという国らしい話なのですが . . . 、父である、ジョーも当然高校だけはちゃんと卒業して欲しかったわけで . . . が、ジェフの熱意に押された形で母であるアイリーンが直接学校の校長のところに行き、その話をしました。その場で校長がジェフの成績表を見てみると卒業するには十分な単位を既に持っていたのです。というわけで幸運にもジェフは卒業するまでの半年を無駄にすることなく思いっきり好きなドラムをプレイすることが出来るようになりました。

月後にデヴィッドからソニー&シェールのオーディションを受けないかと勧められて、1972年の5月、卒業式の1〜2週間前に学校を辞めて彼らのツアーに同行することにしたんだ。それでも一応は卒業証書も貰ってはいるんだけどね。でもこの時期に学校を抜け出すって事はそんな簡単な事だったわけじゃないんだ。そりゃ両親を必死になって説得したよ。勿論最初は猛反対を喰らったね、最終的には彼らも理解を示してくれて、僕を送り出してくれたんだけど。
 妻子でもいればもっと真剣に考えもしただろうけど、当時はジミヘン狂いのホンの子供だった。仕事とはいってもサーカスか何かみたいにしか考えてなかったんだ。そんなわけでソニー&シェールに入った。彼らのツアーとTVショーをまじめに務め、しばらく "ミスター・ストレート" を演じていれば多少の金にはなるなと、ほんの軽い気待ちだった。本当にあの晩レオン・ラッセルの家へ行って、デヴィッド・ハンゲイトと出会っていなければこんなことには絶対ならなかったと思う。アート関係の仕事でも地味にやっていただろう。だから今でも、自分の職葉がドラマーだとは思えないんだよ。しかし学校を中退するっていうのはあまり勧められたもんじゃないよね。まぁ僕にとっては18歳でツアーに出たことが非常に有意義な体験になったから良かったけど。少なくても学校で学ぶことよりも沢山勉強になったんだから」。
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