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 エアプレイのグループとしての成り立ちは、今やもう十分に語り尽くされた感はありますが、一応お約束ということでちょこっと書かせて下さい。

... と、こういう流れでテキストを書いていくと殆どリマスター盤のライナーノーツと同じ構成になってしまうんですよね〜 まぁ同じアーティストの同じアルバムについて語ろうとしておりますのでそれは仕方ないと言えば仕方がないのですが。この先読み進めるに辺り、かなり被る部分があると思いますが、そこのところはお許し下さい。極力被らないようにしていきますので。ただ被った部分を全部取り除いてしまいますと、こちらのテキストが成り立たなくなってしまいますので (^_^; 決してパクっているわけではありませんから〜 そういう訳なので、このテキストだけを読んだだけでは一部意味不明な点も出てくることと思います。可能ならば先の3枚のCDのライナー・ノーツにも目を通していただくとよろしいかと。では先へ進みます。

 そもそもジェイ・グレイドンとデヴィッド・フォスターの二人が知り合いになったのが1970年初頭ということです。ジェイ・グレイドンがプレイしていたエトセトラ・クラブを通じて知り合いとなり、二人は直ぐに意気投合するようになったそうです。今回のライナー・ノーツではロサンゼルスの L.A.ブレアにあったクラブと書かれていますが、L.A.ブレアというのはハリウッドの西部を南北に流れる通りのことを言ってるんだと思います。それでこのエトセトラ・クラブですが、流石にあれから30年以上も時が流れていますから、もう存在してないでしょうね、きっと。逆に今もあったらかなりビックリですが。今日のこの通りは American Rag Cie とか Jet Rag とかあって、私的には比較的にヴィンテージ系のショップが散在しているとうイメージがあります。ただ、店が軒を並べているというわけでもなく、ボツン・ポツンと散在している感じで、結構殺伐とした雰囲気だとも思います。それとこの通りにはA&Mのレコーディング・スタジオもありますね。ちなみにデヴィッド・フォスターの自宅があるというマリブは海岸側の北部にある高級住宅街のことなのかな。確かロサンゼル・ドジャースに在籍していた野茂投手の自宅が以前はあったような話しを聞いたこともあります。

 ちょい横道に逸れましたが、デヴィッドは直ぐにジェイのギター・プレイが気に入り、当時デヴィッドが在籍していたスカイラークや、後のアティテュードのレコーディングでギターを弾くよう依頼したりすることで、お互いの交流を深めて行ったようです。その後は、デヴィッド・フォスターが自分の曲のデモ・テープ作りをする時などにジェイ・グレイドンがギターを弾いたり、仮歌を歌うことなどもあったそうです。そして運命の時がやって来ました。ジェイ...、

 「確か、モーリン・マクガヴァン(注3)のセッションの時だったかな。たまたまデヴィッドも一緒だったんだけど、セッションの後で "凄く良いバラードが浮かんだ" っていうから、次の日に早速二人でスタジオに入って、その曲のデモ・テープを作ったんだよ。詞は当時のデヴィッドの奥さんに書いてもらった。それが "Should We Carry On" ってわけ」。

(注3)Maureen McGovern
20th Century Masters
The Millennium Collection: The Best of Maureen McGovern
 一方のデヴィッドは、
 「ジェイと僕の2人で書いた曲はそれ程沢山はないんだ。"After The Love Is Gone" は確か3曲目だったと思うよ。この曲に来た反応と成功で互いに僕らはいいコンビだなと思うようになったんだ。そんなわけで二人でもっと沢山の曲を書こうということにしたんだ。幸いにもジェイの家にはレコーディングの設備が整ってたから、そこでデモを作ってみたんだ。
 その頃僕はちょうどホール&オーツのアルバム(注4) のプロデュースをしててね、そのデモを聴いた彼らのマネージャーだったトミー・モトーラがえらく気に入ってくれて、RCAのA&Rに聴かせたんだ。まっ、そういうわけで程なく契約をすることになったんだ」。

 アルバム制作の言い出しっぺはジェイ・グレイドンということですから、それまでの流れや "Should We Carry On" の出来に気を良くしたジェイ・グレイドンが、「じゃアルバムを作ろうか」とアイディアを出したという感じなんでしょうか、それでデヴィッド・フォスターにデモ・テープを持って売り込みに行かせたと(笑)


(注4)Hall & Oates
Along the Red Ledge
 それで、先のモーリン・マクガヴァンのセッションですが、それがどのアルバムの、どの曲だったかなわけですが、グレイドンのオフィシャル・サイトにディスコグラフィーが掲載されているので、それで調べてみると...モーリン・マクガヴァンには1978年に2曲を作曲してることになってますね。ギターは弾いてないようですが。該当のセッションがこれだったのか、はたまた他のものだったのかは分りません。が、この2曲のうち1曲はなんと "If There's A Way" ってタイトルになってます! むむむ、これはもしかしてあの曲ぅ?

 そして、もう一人のメンバーとされているトミー・ファンダーバークですが、レコーディングを計画するに当たりジェイ・グレイドンとデヴィッド・フォスターが最終的にはヴォーカルをどうする気だったのかが定かではないのですが、とにかくレコーディングを開始して、当初はジェイ・グレイドンがその役を務めたわけです。しかし、直ぐにジェイ・グレイドンが根を上げることとなり、本気でヴォーカル探しを始めたってとこなんでしょうか。この後でも幾つかエピソードを紹介しますが、とにかくジェイ・グレイドンにとってはヴォーカルのレコーディング自体が非常に苦痛だったようです。そしてそこで探がし出されたのがこのトミー・ファンダーバークなわけです。

 トミーがバンドに加入する経緯についてはリイシュー盤に添付されている中田氏の解説にあるように、作詞家のアリー・ウィリスがエアプレイの二人に引き合わせたことがきっかけとなったそうです。ここにその詳細を書くのはアレなんで、まだアレを読まれてない方は、ぜひリイシュー盤のライナーノーツを読まれることを強くお勧めしておきます。ただトミーの扱いっていうのが今ひとつ不明ですよね。最初のセッションで直ぐにトミーのことを気に入り、"You're in the band" って言ったわりにはジャケットにも登場させてもらえません。それはトミーの参加自体がプロダクション的にかなり進んでしまった後、即ちジャケット写真の撮影まで完了した後だったとでも考えればいいのでしょうか? まさかその逆はないですよねぇ〜 しかし一抹の不安が (^_^; 今回のインタビューでも "just 2 musician" っていう話し方をしてますよね ...。う〜ん不毛だわ。

 次にバンド名の "エアプレイ" の由来ですが、 アメリカではラジオから曲が流れる事をこう言うそうです。二人がこういうバンド名を付けたということは、それだけ本気で売れ線狙いのアルバムを望んだわけで、少なくともTOTOに匹敵する位には売ってやろうとさぞかし意気込んでいたことでしょう ... ジェイ・グレイドンは次のようにコメントしてます。
 「すごくコマーシャルなアルバムにしたかった。で、それをみんながカバーできるような曲を選んで入れたんだ。デヴィッドと僕はソング・ライターとしても上手くいってるし、音楽的にみても手に余らないようなコマーシャルな曲を書きたいと思ったんだ。ラジオで流してもらえる位にコマーシャルな曲をね。このアルバムはメロディーの美しい傑作でなくて、ラジオ向きの曲なんだよ」とまで発言しています。
 それとこれは単なるネタと思いますが、レイ・パーカー Jr. がレイディオというグループをやっていたと思いますが、それに対抗する意味で ... なんてことも言われたりしてましたが、これは単なる噂話しなのかな。
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