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1981
フは学生時代を通じて多くのバンドに参加して経験を積むことになります。その中の一つが後のTOTOへの足掛かりとなる、ご存じの "ルーラル・スティル・ライフ" でした。このバンドはジェフとペイチが出会う前から既に活動を開始しており、学校の仲間達と素晴らしい演奏を繰り広げていたようです。そこにデピット・ペイチが参加することでTOTOの母胎へと一歩近づきました。ペイチがこのバンドへの参加することになった経緯については『InsideMusiCast』 (注1) でのインタビューで次のように語っています...、
(注1) 『InsideMusiCast』
http://www.insidemusicast.com


 「ジェフと初めて会ったのは . . . 彼がちょうど14歳になる頃、僕が彼らのバンドのオーディションを受けた時だよ。ルーラル・スティル・ライフっていうバンドのね。
 そもそもは僕の親父がグレンキャンベル・ショーの仕事をしてたんだけど、そこへジェフの親父のジョーが起用されることになったんだ。そんなところからジョーが、ジェフがバンドのキーボードを探しているから、オーディションを受けてみたらって声を掛けてくれたんだ。そう、僕はジェフ達とは違う学校に通っていたからね。彼らのことについては知らなかったんだ。
 彼らはね、スティーヴ・リーという奴の家でリハーサルをしていたんだ。そして僕はそこで他の何人かと一緒にプレイしてたんだ。そこにジェフがふらっと入ってきてプレイを始めたんだけど . . . その時僕はまさにブッ飛んだね、彼があまりにも素晴らしいドラマーだったから。僕の親父もプロのミュージシャンだったから、プロのドラマーの実力ってのがどんなものかは良く知ってるつもりだったんだ。でも彼らと比較してみてもジェフはあの年齢であれだけ演奏が出来たのは驚異的だったよ。
 それで彼のバンドのオーディションを受けたんだ。多分デイブ・メイソンの曲でジョー・コッカーが歌った "Feeling Alright" をやったと思う。そして僕はオーディションに合格したんだ。
 当時のジェフは反体制的で、ちょっとしたヒッピーみたいなところがあったかな。つまりメガネをかけたヒッピーのような感じだよ。長髪でね、ヘッドバンドまでしてたよ (爆)
 あの時は僕たち2人とも14歳だった。実は僕はピアノを始める前はドラムを少しやってたんだよ。だから直ぐに彼の素晴らしさが分かった。何んていうか、彼との間には特別な関係が直ぐに持てたんだ、まるで科学反応みたいなもんだった」。

 ジェフとペイチの2人はたちまち親しくり、意気投合することになります。後にTOTOとなるバンドの核がこの瞬間に生まれたわけです。当時のルーラル・スティル・ライフについては同上のインタビューで細かく語られているのですが、ここで新たな疑問が浮上しました(^^; ペイチは元来ルーラル・スティル・ライフというバンドのオーディションに参加したという言い回しをして来たのですが、最新のインタビューではペイチの参加後にバンド名をルーラル・スティル・ライフに変更したと語っているのです。しかも、そのバンド名の由来はトム・スコットが1968年にリリースしたアルバム『ルーラル・スティル・ライフ』から拝借したと。 (注2) こうなると何が本当で、何が記憶間違いなのか! 今ら数十年前の出来事ですから、記憶は不鮮明なのは致し方ないのですが. . .。

 ジェフ達は自宅にあった練習場 . . . 元々はガレージだったところをリハーサルに使えるようにとジョーが改造したスタジオで、学校が終わるとここに集まっては練習に明け暮れる毎日となりました。ちなみにこのスタジオはみんなに "Carroting Downs" と呼ばれたりしてたようです。ジョーはここをロック・バンドの為の練習場というよりもグラント・ハイスクールの学生達に開放しており、ジャズ・バンドやマーチング・バンドの練習にも使わせたりしていました。
 その甲斐あってか、ジェフが高校を卒業する頃にはかなりの腕前になっていたようで、ランカーシム通りにあるジャズ・クラブのドンテスなどで度々演奏が出来るようになっていました。それはクラブのオーナーがジェフ達の高い演奏力を認めてくれて日曜日の午後ともなると彼らを呼ぶようになったからです。
 やがてジェフ達の演奏が評判となると、それを聞きつけた多くの連中がクラブに集まりだし、けっこうな人数のお客を呼べるようになります。
 それらと平行するようにジェフの名前をロサンゼルス中 . . . いやロスの音楽業界にその名を知らしめることになるイベントが起きます(←ちょっと大袈裟か?)。当時ロサンゼルスのハリウッドボウルで『バンド・バトル』なるアマチュア・バンド・コンテストが催されていました。その大会にジェフ、ペイチを擁するルーラル・スティル・ライフが参加したのです。結果は残念ながら優勝を取ることは出来なかったわけですが、審査員達はジェフのプレイに深い感銘を受け、ジェフに前例のない審査員特別賞を与えました。とはいいますが、きっとこの前からジョー・ポーカロの息子ということもあり、ジェフの名前はこれより前から結構知れ渡っていたんじゃないのかな〜と勝手に想像をしているのですが。ロサンゼルスと言ってもそう広い町ではありませんから。

 話は前後するかもしれませんが、ジェフはバンド活動に熱を入れる一方で地元のスタジオでバイト代わりにセッションの仕事をしていたのもこの頃でした (リットーミュージック社刊ドラムブラザーより)。学校の帰り道であるバーバンク通りにはレコーディング・スタジオが多くあり、そこではデモテープなどが作られていました。スタジオの関係者がジェフの噂を何処かで聞きつけたらしく、それらのセッションにジェフを呼ぶようになったのです。ジョーの記憶によれば「1曲$25ドルでプレイしたりしていた」というから、いい小遺い稼ぎになっていたようです。




(注2) Tom Scott / Rural Still Life

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