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1981
 日本公演後に、断続的に行われた北米ツアーは下記のようなスケジュールだったようです。しかし日本での公演数と北米マーケットの広さを考えて比較すると、この公演数は少な過ぎますよね。それがアルバム『ハイドラ』の売上が今ひとつだったことに影響を受けているのかどうかは分かりませんが。
 逆に考えると日本でのジェフ&TOTOの人気が如何に過剰気味だったかにも繋がるわけです。この頃のTOTOにはより多くのツアーを行ってアルバムを宣伝しようという考えはあまりなかったのか? それよりもセッションの仕事の方が実入りがいいのか(^^; あまりツアーを推し進めようという気持ちはなかったんでしょうね。

18 June 1980 Civic Auditorium ,Santa Monica, CA
Hydra World Tour

15 June 1980 Calaveras County Fairgrounds, Angels Camp, CA
Mountain Aire Festival with TOTO, Doobie Bros, Huey Lewis etc.

14 June 1980 Calaveras County Fairgrounds, Angels Camp, CA
Mountain Aire Festival with TOTO, Doobie Bros, Huey Lewis etc.

11 June 1980 Civic Auditorium, Santa Monica, CA
Hydra World Tour

26 May 1980 State Fairgrounds Grandstand ,Des Moines, IA
Iowa Jam with TOTO, Journey, Molly Hatchet, The Babys etc.

30 April 1980 Wintergarden, Dallas, TX
Hydra World Tour

16 April 1980 Premier Theatre, Norfolk, VI
Hydra World Tour

 当時のとあるインタビューで、TOTOの人気ぶりについて質問されたスティーブ・ルカサーは

「そんなの日本だけだぜ。ここじゃ、どこを歩いたって僕のことを知ってる人なんていないもの。ロサンゼルスじゃ僕なんて無名だからね」、などど悲しくなるような受け答えをしてます。

 また、同様にジェフは日本での人気ぶりについて、

「そう、どこの国のファンより最も音楽について詳しいと思うよ(日本人は)。きょうはTOTOを見に来て、次の日にはクラッシュを見ても、ちゃんとそれぞれの音楽を理解したうえでのことだと思う。ものの価値を掴み取ることができるんだろうね。

 例えばステージで、僕達の誰かがソロをやると、アメリカじゃビールの缶なんかが飛んでくるけど、日本ではちゃんと聴いてくれるんだ。誰かがステージでけつまずいたがらではなく、良い音楽を聴いたことで喜んでくれるから、いい気分だよ」。







TOTO旋風が吹き荒れた証拠?
こうして楽器メーカーの宣伝に駆り出されることもしばしば.....。


 1980年に北米ツアーの一環としてマウンテン・エアー・フェスティバルに、ドゥービー・ブラザース、ヒューイルイス等と伴に出演。

 結局アルバムのプロモーションを兼ねたワールド・ツアーも国内でのレコード・セールスに結びつけることもできず、かなりの苦戦を強いられました。アルバム・チャートでは最高37位、シングル・カットされた "99" が1980年春に最高位で26位を記録しただけでした。デビューが衝撃的だっただけにこの落差が大きく感じられてしまいますね。

 ジェフはこの頃を振り返えりこう語っています...

「どのグループでもある時点で、自分達がどうありたいかっていうイメージに照準を合わせるんだと思う。ツアーにしろ、ビデオにしろ。そういう意味で言えば僕達は2作目のアルバムを気に入ってたんだ。レコード会社には、市場についても、人々についても、このアルバムを受け入れる準備が出来てるって教えられた。まさにレコード会社の好む形で作られたんだ。時代を先取りしてて...。アルバムのジャケットも進んだプロモーションが出来るようにとかいう理由で先取りしたようなイメージを出してた。だけどこのアルバムは日本以外では何にも反応がなかったんだ。アルバム自体は、僕達が普段作るやり方じゃなかったけど誇りに思っていたし、気に入ってもいたよ。その当時の僕達から出て来たものなんだし。作品は充分に強力で、もっと売れても良かったんじゃないかと思ってるんだ」。

 ツアー終了後には次作となるアルバムのレコーディングに取りかかります。しかしこう考えるとTOTOというグループは実に働き者ですね。アルバムを制作し、ツアーを行い。それが終了するとまたまたニュー・アルバムの製作。勿論その合間を縫うように数多くのセッションに駆り出され。結果、殆ど休暇らしいものを取ってないんじゃないかと思えてしまう程です。特にこの時期は後にリリースされた種々雑多なアルバムのクレジットから判断するに猛烈な勢いで仕事をこなしていたようで、その中にはリリースされずにボツったものもあるでしょうし。よく言われていることですが、彼等が参加したセッションの数を正確に知ることは殆ど不可能な話しですね。

 というわけで、この時期はTOTOとしてのグループ活動はアルバムのレコーディング以外に目立ったものがなかったわけで、おのずと彼等の情報に私達、日本のファンは相当飢えていたことと思います。前項でも書いたように、彼等の帰国後は「幻のライブ・アルバム」を首を長くしながら待ち構えていたわけですが、結局はボツったしなぁ。その代りに膨大なセッション参加アルバムからお気に入りのメンバーの名前を見つけては貪るように聞いたものでした。

 と、そういう状況でしたが、そんなこんなで年が越えると、あれよあれよという間にニュー・アルバムが登場することに。

TOTO / 99
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