home Jeff Mania
何故、パールなのか?
【妄想 2】何故、パールなのか?

 最初にお断りしておきますが、今後ヤマハ&TAMAの話は一切出てきません! というのも、私はジェフに出会ったお陰で、これから先小さく迎えるパール台頭時代の幕開けと共にパールのレールにすっかり乗ってしまいますので、ヤマハがどうとか、TAMAがどうとか言えるだけの知識がこれ以降は欠落してしまいます。思考停止状態 + カタログもほんの少ししか持ち合わせてません。ですから、決して "当時のヤマハが悪い" とか "TAMAは駄目" だとかではありませんのでご容赦願います。

 さて、私はこのレポートを書きながら "何故、パールなのか" と妄想し始めた時、あの『運命の出会い』の日を思い出しました。どこを思い出したかというと、Y氏とジェフが話していた会話です。

「パールでドラム・ラックを作って販売したい」

 実は私はこのレポートに取り掛かる前までは、この件はパールからの要望だと受け止めていたのですが、いや? 待てよ?【妄想 1】に書いたように、ヤマハがラックの話を断り、物別れに終わっていたとしたら、今回、パールのエンドース契約の中にも、"エンドース契約する代わりに、ドラムに関するアイディア (ラック) が幾つかあるので話を聞いて欲しい" と、事前にジェフからパールにオファーがあってもおかしくはないのでは? と思ったのです。

何故なら、
1980年来日時には "手作りラック"(注1)
"Goodbye Elenore"のプロモ"、『聖なる剣』の裏ジャケでは "ラック無し"(注2)
でも、1982年の来日時には再び "手作りラック (小奇麗版)" を使っているからです!(注3)

 とにかくジェフとしては、ラックをいち早く商品化してパテントを取得しておこうとまでは思ってなかったにせよ、安心して自分の考えた、自分サイズのラックが使用することが出来、なおかつ部品の供給も確実に出来るように、信頼できる大手のメーカーに商品化をして欲しかったのかもしれませんね。

「詳しくは来日の際、実際お会いしてお話しましょう!」なんて、ことだったのかも...。

 となると遠く思いを馳せる私、『運命の出会い』のあの日は、まさに、ジェフとパールの初顔合わせとなる歴史的瞬間であったのかも? そう考えると、わざわざ本社 (当時、パールは近くでは広島と大阪に支社を持っていたので、フォローだけなら本社からお偉方が来る必要もないでしょう。それとも、既にビッグネームだったジェフは特別待遇だったかも?) からY氏が来たのも頷けますし、リハーサル会場に入るまで、そしてジェフとの面会までの異様な緊張感も理解出来ますよね。そんな中で、英語も分からず、ボーッと座っていた私はジェフの目にどのように映ったことでしょう? きっと変な感じだったでしょうね。それも、ジェスチャーで、何かと何かを組み合わせ、横か、上からねじ込むような身振り・手振りで何かのネジ(多分、その時に使っていたラックの一番大事なネジ。数日後工場見学の折り、その場で作ってもらって感動したと言われる) の説明を熱く語っていたのに、こっちはジェフを "半信半疑" で斜に構えてたんですから。つくづく、当時の私の心根が恥ずかしい。

 さてそう仮定すると、当時新発売のスタンド類を何点か持ち込んでアピールしたことも、ネジの相談 (もしかすると、「じゃあ、東京公演の前でも後でも空いた時間に工場に来てもらって、詳しく説明してくれれば作ってさしあげますよ」、なんて会話していたのかも? あ〜あっ、英語を勉強しておけば良かった...) を受けていたとすれば、会社の姿勢を見せるためにも、Y氏の迅速且つ的確な対応が必要だったんでしょうね。





















(注1) 1980年来日時には "手作りラック"
(注2) "Goodbye Elenore"のプロモ"、『聖なる剣』の裏ジャケでは "ラック無し"
(注3) 1982年の来日時には再び "手作りラック (小奇麗版)"
 勿論、スティックも然り...。これまた、最初の方に書いた『運命の出会い』から、

"ドゥービ・ブラザース繋がりで、ジェフは仕事を受けた"

(注4) キース・ヌードセン
 この言葉に、ジェフに近いエンドーサー、ドゥービー・ブラザースだからキース・ヌードセン(注4)、この辺りに、何か隠されていないか1980年のカタログを見てみました。すると、Giant Step 'Artist' Series (メイプル・ファイバー・シェル) の説明書きに、
 "ドゥービー・ブラザースが初めて来日した時に彼らがパール・ドラム工場で見つけたのがこのメイプル・ファイバー・シェルの第1作。当初は録音用にと言っていたキースも今はこのセットだけを愛用しています。メイプル・ファイバーのサウンドは、木胴とは思えない程のパワー、そしてやや硬めのシンの太い音が特徴。湿気の影響も少なく、安定したサウンドが得られます"。

 なんと心の広いパールかな! "試作品? これでも良ければどうぞどうぞ!"となれば、そりゃあ誰でも喜ぶでしょうし、仲間内に言いますよね。

「パールに行ったらいろんな試作品があるし、気に入ったものがあればくれるし、ひょっとしたら、何かその場で頼んでも、出来るものなら直ぐ作ってくれて持って帰れるかも!」

 なんてね? 想像ですよ...。こうなるとエンドーサーにとっては "飴に飴" どころか、その "飴" に砂糖をまぶしてチョコレートのコーティングを施し、生クリームでデコレーション、挙げ句の果てには付け合わせのアイスクリームを乗っけて食べるとマイルドですよ! と、そのまま放っておけば糖尿病にまっしぐら状態。一度患うと中々完治しない病気だけに性質が悪い、後にアメリカより "キッツ〜イ" 荒治療をされるのですが、それまでは、只々パール・レールまっしぐら! まぁ、その "キッツ〜イ" 荒治療の話は後程。

 そんな話を聞いたか聞かないかは全く分かりませんが、ヤマハとのエンドースも金銭的なものは助かるにしても、こと楽器に関する不満があったのかもしれないジェフ? その様な状況で人知れず一人悩んでいたか、友人・知人に相談したか、これまた全く分かりませんが、例えばそんな状態の折り、キースの話を小耳に挟んだり、既に以前、パールからオファーとか受けていて、尚も、継続的にパールの強力なプッシュがあれば相思相愛! 尚更、興味津々ではないでしょうか?

「じゃあ、取り合えずドラム送ってみてよ、で、ちょっと興味あるし、試してみたいから深胴にしてみてよね、バス・ドラムは22"×18"でよろしく!
 えっ? 18"が出来ない? どうにかしてよね...。
 他のアイディアはまた詳しく言うよ!」

 と、こんか会話はがあったかどうかは分かりませんが、2004年1月にブレィディ社のボリス氏と会って話した時に、こんな事を話してくれました。
「ジェフからクリスに、ドラムに関する相談の電話がよく掛かっていましたよ。私はその横にいて仕事をしていたのですが、まさかあの様な (ジェフが亡くなる) 事が起きるなんて思ってなかったので、電話の内容も気にせず、その都度クリスにも聞きませんでした。あの時、もう少し気にかけていればあなたにもっとジェフがブレィディに望んだ事を教えてあげられたのに...」と。この様に、ジェフはドラムに関して、ブレィディに限らずどのメーカーにも要望を事細かく話し、相談していたのではないかと思われますね。

 話し変わりますが、私は、ジェフがパールと契約した時に初めて使用したパールのドラムがイマイチ意味不明です。

何故にタムが深胴なのか?

 大体、黒とかシルバー系統とか渋めのドラム・カラーをチョイスしているジェフが、

何故にワインレッドなのか?
何故、GAXじゃないのか?
パールの深胴&ラッカー仕上げの宣伝用?

 一つ、何故キース等と同じように、当時の最高機種であったGAX (メイプル・ファイバー) じゃなくGX (メイプル) をチョイスしたのかはパールの担当者に聞いたことがあります。話によると、割りと海外のドラマーはプレーンなものというのか、普通のメイプル・シェルを好む傾向にあるようで、元々GAXシリーズは日本のように湿気に左右され易い国ならではの工夫されたシェルだったようです。音も、GAXシリーズはパワーがあり太めで硬く (私が聞くには少しウエット? ダークな感じのようでした) 、ジェフの様にストレートでオープンな音を好む、ナチュラル志向にはGXシリーズの方が好みの音だったのでは、との見解でした。

 しかし、よくここまであるかないか分からない会話を次々書く事の出来る自分が恐ろしい、あくまでも、想像ですのでお許しください。

 以前、パールとエンドース契約したディープ・パープルのイアン・ペイスが、何故、パールを使い出したのかと質問された時に "スタッフが非常に親切で暖かかった" みたいな記事を読んだ様に記憶してます。1980年のカタログの紹介の所でもヤマハやTAMAがどうであったかは分かりませんが、パールはロンドンに事務所があったようなので、イアン・ペイスには何かと都合が良かったのでしょうかねぇ。『ドラム・マガジン』No.2号でイアン・ペイスと樋口宗孝氏との対談の中でパールについて話してます、
「パールは、いわばファミリー・カンパニーだ。イギリスのパールは全部で6人ほどのスタッフしかいないけど、2〜3人のスタッフと親しく付き合っているし、お互い持ちつ持たれつで頑張っているんだ。今朝もパールのスタッフと朝食をとったんだけど、みんなとてもいい雰囲気で、ロードに出てもミュージシャンをよく理解してるね」。


戻る 進む