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心の広いパールさん
 話は少し逸れますが、"心の広いパールさん" についても少しお話しましょうか。私は、1983年 (第1回目の九州)、1984年 (第5回目の北軽井沢) と、パールのサマー・ドラム・スクールに参加させて頂きました。その時、講師陣の有名ドラマーがパールのエンドーサーにも関わらず、ちょこちょこっと社外品を使っていたことに驚いた記憶があります。

 1983年は、北軽井沢以外では初となる九州スクールでした。講師陣は、村上 "ポンタ" 秀一、そうる 透、小野 裕介のお三方でした。たぶん全てが全てその時に使用していた自前のドラムではなかったにもしても、後にジェフと "ラック" で一戦交えることになる、そうる透氏は、当時としてはまだまだ珍しいdwのチェーンペダルを自前で既に愛用してました。
 1984年は、パール・サマー・ドラム・スクール発祥の地でもある、念願の北軽ホリデーへ! その時の講師陣は、つのだ☆ひろ、日野 元彦、鈴木 "ウータン" 正夫、マーティー・ブレイシー、そうる 透、長谷部 徹、小野 裕介、土肥 晃などそうそうたるメンバーでした。

 前年にお世話になったそうる 透氏はこの年にはラックを使用! でも、ラック本体は市販品のアルミとは違い、ドラムの点数が多くても安定するようにラック自体の重量を補う為、鉄製のものを使用し、同じ材質で後に発売にされるシンバル・ラック (これも、市販品と違いラックと同じ材質で出来ていました) も装備されてました (ラックについては書きたい事が多々ありますが、またの機会に譲ることにします)。長谷部 徹氏もブラスのスネアーだったと思いますが、"実はねぇ〜、この胴はスリンガーランドなんだよね! 胴だけ取り寄せてパーツをパールで付けたんだよ..." などと仰ってました...。

 他にはスクールには関係ありませんが、東原 力哉氏の黄色いスネアー、実は彼の敬愛するトニー・ウィリアムスと同じグレッチだったと聞きます。どうしてもスネアーだけは譲れないとのことみたいで、パールに言われたか、自らそうしたのかグレッチのバッチが見えないように、いつもセッティングに気を使っていたとのことです...。後には、その黄色に合わせて (?)かもしれませんが、パールに再びイエロー・フラッシュのカバーリング・フィニッシュがラインナップされましたね(笑)

 フィニッシュといえば、パールは結構エンドーサーの要望に応えて、市販品には無い、市販もしない (一部限定品で発売された色もありましたが) 色々なカスタム・フィニッシュをエンドーサーに提供していました。そうる 透氏のディープ・ブルー・サンバースト、つのだ☆ひろ氏の金ラメ、樋口 宗孝氏のミラーボール、プリプリの富田 京子氏のステージ・ピンク等々。海外の大御所では、今はプロデューサーで名高いナラダ・マイケル・ウォルデンも1982年頃はパール初の試みとなるチェリー・サンバーストのカスタム・カラーでしたね。+エクステンダー・フロアータムという、胴より打面側のヘッドが1インチ (多分) 大きい、ティンパニィの原理を応用した様な試作品を使ってました。が、市販はされませんでした。


(注1)ジェフが一時期使っていたチャコールグレイ・ラッカー
 最近では、村上 "ポンタ" 秀一氏のオール・ステンレス・ドラムも作ってます。そうそう、カスタム・カラーとまではいきませんが、ジェフが一時期 使っていたチャコールグレイ・ラッカー(注1)、実は輸出専用カラーだったのですが、たまたま、来日した時にジェフがチャコールグレイを見て気に入り、そのまま日本国内のライブで使用したようですが、市場調査も兼ねてたのかも? (不敵な笑み)。後に、パールでも短期間ではありますが販売してましたね。余談ですが、このジェフの使用したドラム・セットについては驚くべき顛末が、以前にJeff's WorldのBBSに登場しましたよね!

 その他、パールはドラマーの数限りない "要望" に答え、今までに色んな物を提供して来てます。その様な "要望を満たす" というドラム作りが発展したかどうかは分かりませんが、現在パールでは一般ドラマーにもカスタム・ドラムの門戸が開かれてます。ドラムの胴 (コンポジットシェル) からパーツ、フィニッシュまで、全てを特注&手作りしてくれるMasterworksがそれです。ドラマーにとっては、まさに "自分だけの夢のドラム" が手に入るわけです。
 失礼、だいぶ話し逸れましたが、ジェフは、この様に積極的にドラマーの要求に答えてくれるパールが、自分の思い描くドラム・メーカーに近かったのかもしれません。 そんな話を裏付けるような記事が、これまたドラム・マガジン創刊号に紹介されてます、

"ラックはステージで完全燃焼するための城"

『ジェフは、ドラム・フリークと言えるほどのマニアで、彼の家には世界中のあらゆるドラムがある。オヤジさんのジョー・ポーカロの影響で、いろんな音楽を経験し、また楽器としてのドラムをよく研究している。ジェフにとって、ドラムは○○社製ということは本来意味が無く、良いものであれば、どんな片田舎の職人がつくったものでも愛用してしまう。ペダルのアクションを自分の好みにより近づけるために歯付き座金 (こんなパーツ知ってるかな?) を吟味したり、より自然なドラムの鳴りを追求するために空気穴の位置を変えたり、独自のハードウェアを設計したり...。ジェフのオリジナル・ラックは、まさに、彼がステージで十分に燃焼したいがために築いた城のようなもので、彼の研究心の結晶とも言えるだろう。

 そんな彼の理想にもっとも近いドラムは「パールだ」と彼は語っている。それは、世界中のドラムを知り尽くした彼が、サウンド的にも技術的にもパールを認めたということなのだ。ジェフのドラム・サウンドは、とってもナチュラルであたたかい。彼は、共感できるミュージシャンなら誰とでもうちとけてプレイし、しかも自分のサウンドをぶつけていく。レコーディングでは、レモ・コーテッド "アンバサダー" を使用し、あくまでも余分な音のみをカットするために若干ミュートする。ライブでは両面レモ・クリアー・ヘッドでノー・ミュートだ。しかし、いつも変わらないのは、ドラムの持つサウンドをめいっぱい発揮させるマイク・セッティングだ。そしてドラム・シェルはメイプルのみ。彼のモースト・フェイバリット・シェルだ。ジェフは日本に来てパールのドラム工場を見学した時にも、試作品を作っている工作室に入って感動し、
「ボクも年をとったら、こんな部屋をつくってみたいな」と言って、相変わらずのドラム・フリークぶりを発揮。どこまでもドラムを愛しているドラマーであった』。

 さあ、色々と思いを巡らせて、勝手気ままに進めてきましたが、先のパールの記事に当時のジェフの持つ私達のイメージと、ジェフ自信がパールに対してどのように思っていたのか、私がクドクド書いたより、端的且つ的確に表しているのではないでしょうか。

 既に、ドラム・メーカー同士のドラマーの引っ張りあいが始まっていたので、手前味噌な "我が社は我が社は!" 的表現も否めないでもありませんがね。でも、「完全燃焼する為のラック造りの手伝いをしましょう! 私達は絶対にあなたの想いを希望通り型にすることを約束しますよ!" こんな言葉のやりとりがあったならば、本当にジェフは喜んだに違ないでしょう。その後、パールとエンドースを結んでからは、契約上からかドラム・マニアぶりは、表立っては陰を潜めてしまいます。

 折りに触れて出てくる話題、あの時、あのレコーディングでは何を使ってるのかなぁ〜? なんて疑問がありますが、私が思うに、やはりドラム・マニアなジェフは人目に触れなければ、みたいな気持もあるだろうし、ドラム・レンタル会社に管理を依頼していることもあって、事前にレコーディングの状況や必要なもの等を説明し、基本はパールをチョイスしても、ここぞというこだわりの細部には自分の必要としているものを妥協することなく、結構、自由に試したり、使ったりしていたのかもと想像します。

 この辺りの、少々の事には目をつぶり、"持ちつ持たれつ" の関係を付かず離れず上手くパールは保っていたのかもしれませんし、ジェフもその辺りの "如何にも日本的考え" を理解して、あまりに突拍子もないことと思われることは避けていたとも思われるのですが? みなさんはどう思われるでしょうか? 勿論、ラックのパテントによる副収入もあるでしょうし、ドラム等に関する全面的バック・アップもかなり魅力だったのでしょうね。あっ、遂々置いてけぼりになりますが、パールのドラムに対する精神もそうですし、ドラム本体が素晴らしいのは言うまでもありませんよ!

 そんなこんなで、ジェフとパールの関係は亡くなるまでずっと続きました。思うに、1982年、私にも感慨深い年でもありましたが、たまたま、ジェフやルークさんが使っただけなのか? 彼らが使ったお陰だったのか、その後のパールとイバニーズのブレイクには目を見張るものがありました。

(注1)ジェフが一時期使っていたチャコールグレイ・ラッカー
 1988年12月9〜10日に渋谷クアトロで行われたシング・ライク・トーキングのデビュー・ライブにジェフが突如参加。その際に使用されたのがパールのチャコールグレイのセットです。
 なお、現在この時の音源はアルバム『Sing Like Talking / Reunion』に1曲のみが収録されています。以前にFMラジオで放送されたこともありました。
Sing Like Talking / Reunion
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